昭和42年12月22日 朝の御理解
信心を五年十年と、十五年も信心を続けておりますが、はたしてどれだけ信心が分かって、どれだけ信心が上達しておるだろうかという事にあたり、事に触れた度に思うてみるのでございますけれども、一向に上達してない。自分が信心させて頂くようになってからもう十年になる。五年前と例えば今日、どれだけ信心の内容ができただろうかと。そうできてない。なるほどこれではおかげが受けられんはずだという事にもなるわけでございますね。一つの問題でも、五年前はこの問題を、本当に腹が立ったり、悲しかったりしたけれども、五年後の今日はそれが腹の立つどころか、かえって神様に御礼を申し上げるような心の状態が開けておるというようにその、信心の稽古ができていくという事はそうだとこう思うんですね。いわゆる本当の事が分かる、いわゆる肉眼をおいて心眼を開いていっておる姿、物の見方考え方、あそこに二、三年はもう本当に良う信心が上達したように思うけれども、あとは一向に上達しないといったようなものが多いんですね。
昨日私そういう話を二、三の方から( ? )して聞きましたんですけれども、ほんなことです、聞いてから自分自身に、はあ、ほんなこと、十年前と五年前と、五年後の今日、大した変わり映えのない自分自身、いかに本気で信心の稽古をしていないか、取り組んでいないかという事をこう思います。そして、結局それはどういうところに原因しておるのかというとですね、こうやってしげしげとお参りはしておるけれども、やっぱお願い参りだからだという感じが致しますね。だから、信心のここには稽古に来るところと仰るのにその、一つも稽古しよらんです。で、結局その、お願い、おかげを頂きたいと思うてお願いをして、まあ、その、お話を頂いておるけれども、結局身に付いてないという事。いかにその、教えの教えを実行しないかという事を考える。
信心に一番大切なものは、まあ辛抱だ。神信心には辛抱する事が一番大切でございますと。本当に簡潔に三代金光様がそのように教えておられます。その辛抱させて頂いておるという事がです、教祖の神様が、信心させて頂いておれば一年一年有難うなってくるとこう仰せられます。その一年一年有難うなっていってないところにです、私は物の見方考え方が五年前も五年後も同じという事になるんじゃなかろうかと。信心をしておれば一年一年有難うなっていくというところに焦点を置いて、そして辛抱する事が一番大切でございますでなからにゃいかんのです。
小野道風(おののとうふう)という、その当時日本の三筆と言われるほどに書道の大家であった。稽古しても稽古しても、いわゆる手筋が悪いというか、一向に自分の字が上達しない。だからもうやめようとこう思うた。ところがある時その、柳の木に飛びつこうとして、一生懸命にこう飛んでおる蛙を見た。柳の、こうしだれ柳の先に雫がキラキラ光っておる。虫と間違えたんですね。それでも蛙が落ちては取り落ちては取り、それを見るとはなしにじーっと見ておったらですね、だんだんだんだんその、飛び上がるその、上手、上達していくわけなんです。してとうとう最後にはその、柳の木に飛びついたとこう言う。それでそのまあ、翻然として悟ったわけですね。いくら稽古しても稽古しても自分はだめだと思いよったけれども、まだ辛抱が足りんのだと。こりゃ、まあここをひと辛抱させてもらわにゃというて、当時の日本流で、まあ、三筆と言われるほどの第一人者としての書道の大家になる事ができたとこういう。
私共がですね、そこに焦点を置かなきゃいけんのです。一生懸命その事に取り組んで稽古させて頂いていきよればです、何とはなしに( ? )はまだ上に飛びついてはいないけれどもです、確かに一寸ずつ、二寸ずつではある、小刻みながらも飛び上がる事ができるようになった。小刻みながらも形の上においてはまだおかげは現れていないけれどもです、自分の心の中には有難いというものがだんだんこう、一年一年、育っていっておるというようなですね、そこんところの楽しみになる信心をさせて頂かなきゃならない。
もう繰り返しこんな事を私は申し上げるわけでございますけれどもですね、何か事に直面した時に、ありゃ、こりゃあ自分は信心はいっちょん分かっとらんと思わんならん時がございます。ここは本当に稽古しよるけれども、このくらいの事に自分は心を汚しよる。このくらいの事に腹が立ちよる。このくらいの事に心配でたまらんという事です。結局、稽古という事が、本当の稽古ができていない。しかし毎日参りよる。信心の稽古に通うておるつもりだけれども、信心の稽古の内容をよくよく検討してみたらです、あれば頂きたい、こればこうしてもらいたい、そのために念願、心願を立てて拝みはおるけれども、参りはおるけれども、稽古になっていない。ただお願い参りにすぎないというような事がだいたい一番の原因のようである。今日はどういう事を教えて頂くだろうか、その事を楽しみにお参りをしてくる。それに取り組んでです、それが教えられた通りになかなかできないのだけれども、それを繰り返し繰り返し、いわゆる辛抱する事が一番大切でございますと仰るその大切にそこをしていくところにです、飛び付きはできんでも、少しずつこの、跳躍が、昨日よりも今日というようにできるようになった。心が有難い方へ有難い方へとこう進んでいきよる。そこに、この調子でいきよりゃあ必ずおかげが頂けるなあというその、確信の持てれる希望というかね、そういうものが湧いてくる。
改めて言うまでもないのでございますけれども、一年一念有難うなっていくというその一年一年有難うなっていくというところの信心ができてない。これは皆さんだけの事じゃない。私自身もそうでございますけれども、これは本気でそこを取り組ませてもらって、本気で信心の内容がですね、稽古させて頂くにしたがって美しい豊かなものに育っていく事を願いとしてのお参りになってこなければ、信心が上達しないという事を思います。改めてですね。神信心には辛抱する事が一番大切と仰せられる。辛抱させていただくという事のどこに焦点を置いて辛抱するか、ただ辛抱するだけじゃあいかん。一年一年有難うなってくると仰る、有難うなっていくというところに焦点を置かにゃいかん。じゃないと私、 信心の一番大切なもの、信心の、いわゆる神様が本当に下さろうとしておるおかげ、その大切なものの、または神様が下さろうとしておるものにも触れんなりに信心がお終いになってしまわなければならないような事では惜しいです。どうぞ一つ本当のところへ焦点を置いて、そして本当のところへ、私の願いではない、神様の願いとでも申しましょうかね、いわゆる私共が夢にも思わなかったようなおかげに進展していくようなおかげの頂けれる信心をさせてもらわなければならない。自分の願いが成就する為に一生懸命参ってから、成就をいたしましてもそれだけの事。私共が夢にも思わなかったようなおかげの世界に出らせて頂かなければ、神様に喜んで頂くおかげと言えんのですからね。
どうぞ。